こんにちは、kScの田中です。『四国お遍路ときどきサウナ』のエピソード5では、第5番札所「地蔵寺」(じぞうじ)を紹介いたします。
第4番札所の大日寺は一本道の行き止まりに位置していますので、第5番札所の地蔵寺に向かうには境内を出てそのまま来た道を南へ引き返していきます。下り坂を道なりに進んでいくと徐々に市街地になっていき、旧撫養街道に合流する直前で地蔵寺が見えてきます。
地蔵寺はかつて有力者の後ろ盾を得て大きく繁栄した時代と、複数回の衰退の時代をもつ寺で、現在でも1万2000坪もの広大な敷地を有することからその歴史を感じることができます。また地蔵寺という名称だけあり、四国の霊場で唯一、勝軍地蔵菩薩を本尊としています。
見どころは盛りだくさんですが、奥の院の五百羅漢像はこれも四国で唯一のもので、日本最大級の規模でもあります。訪問したときはぜひこちらも行ってみてください。
第5番札所 地蔵寺(じぞうじ)
地蔵寺は、徳島県板野町羅漢林東にある真言宗御室派の寺院です。本尊は延命地蔵および胎内仏の勝軍地蔵菩薩で、これらは空海(弘法大師)の作と伝えられています。無尽山(むじんざん)荘厳院(しょうごんいん)と号し、四国八十八箇所第五番札所、阿波西国三十三観音霊場(東部)第24番札所として知られています。
ご詠歌:六道(ろくどう)の 能化(のうげ)の地蔵 大菩薩 導き給え この世後の世
歴史
寺の開基は弘仁12年(821年)で、嵯峨天皇の勅願により、空海が開創しました。本尊は空海が自ら彫った、甲冑を身にまとい馬にまたがる姿の勝軍地蔵菩薩を自ら刻んだと伝えられています。この勝軍地蔵菩薩は一寸8分(約5.5 cm)の大きさだと言われます。
その後、淳和天皇・仁明天皇の3代にわたって天皇家の支援を得て繁栄の時代を迎えました。そして宇多天皇の時代に、紀州・熊野権現の導師であった浄函上人が、熊野権現の託宣によって霊木に2尺7寸(約80 cm)の延命地蔵菩薩を刻み、勝軍地蔵菩薩を胎内に納めたといわれています。
本尊が勝軍地蔵菩薩という縁から武将の信仰も厚く、源頼朝・源義経をはじめ、蜂須賀家などの多くの武将からの援助を得ていたようです。最盛期には、26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国に300あまりの末寺を持った歴史もあります。
しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により地蔵寺は全面的に焼失し、その被害によって勢力を大きく損ないます。その後、江戸時代に徳島藩主・蜂須賀家の庇護を受け、等身大の羅漢像も再興されました。ところがその後も大正4年に参拝者の失火により罹災するという事件があり、現在は3度目の復興を遂げたと言えます。
境内
▲本堂
▲大師堂
▲山門
▲たらちね大銀杏
◯本堂‐本尊は秘仏の地蔵菩薩半跏像で、前立には胎内仏を模した勝軍地蔵菩薩がある。
◯大師堂‐大師像を拝観できる堂塔で、天井画では天女が舞う様子が描かれている。
◯山門(二天門)‐単層の山門で、左右に二天像が存立している。
◯石柱門‐入口にある「不許葷酒入山門」の石柱が知られる。
◯不動堂‐不動明王立像のほか、両脇に如意輪観音(阿波西国24番)と八臂弁財天が安置されている。
◯八角堂‐金色に輝く観音立像が安置されている堂塔である。
◯淡島堂‐和歌山県の淡島神社の分身とされる堂である。
◯水子地蔵尊(水琴窟)‐庫裡の玄関左にも水琴窟がある。
◯たらちね大銀杏‐樹齢800年を越えるといわれる大木である。
◯修行大師像‐大師の物語が描かれた台座で知られる。
◯句碑歌碑‐本堂の背後から五百羅漢へ向かう道の両脇に4基ある。
宗派:真言宗御室派
本尊:延命地蔵 胎内仏・勝軍地蔵菩薩(伝弘法大師作)
開基:弘法大師
創建:弘仁12年(821)
真言:おん かかかび さんまえい そわか
所在地
〒779-0114 徳島県板野郡板野町羅漢字林東5
電話088-672-4111
駐車場/普通50台・マイクロバス20台・大型10台
宿坊/なし
公式HP/なし
*境内は基本的には写真撮影OKですが、場所によっては撮影禁止の所もあります。
*気を付けながら撮影しているつもりですが、禁止箇所に気づかず見逃していれば再編集いたしますのでご一報ください。
クチコミ情報
0